シロウト百姓25年~得たもの・失ったもの~
第一回「出発前夜」(1999年3月執筆)
失ったものと言えば、やはりまず一定の安定した社会的地位と収入、そして安楽、快適、「豊か」なくらしをあげなければならないだろう。これらすべてを敢然と擲(なげう)って、ゼロから新しい人生を歩み始めた、と言えばカッコイイのだろうが、事実はそうではない。
今風に言えば登校拒否か、それとも単なる五月病か、入学して1か月もしないうちに、どうにも大学が耐えられなくなった。
両親への手前、毎朝、本と弁当の入ったカバンを抱えて、福岡市南区野間(のま)の家を出るには出た。高宮(たかみや)からギュウギュウの西鉄電車に揺られ、薬院(やくいん)で路面電車に乗り換え、六本松(ろっぽんまつ)の大学に辿り着いたのは着いた。最初は講義にも出た。だが頭の中がまるで空虚というか真っ白というか、なんにも残らないというか、そもそも入ってこない。数学にも力学にも英語にも独語にも哲学にも、まるっきり頭も心もときめかない、反応しない。俺はやるぞ、やらなければならないのだ!と、懸命に気張ってみても、情熱の1かけらも湧き起こってこない。
そのうち教室に入るだけで吐き気を催すようになった。まるでテレビの画面のような教官の無機的な顔も、カボチャかスイカのようにずらりと並ぶ学生たちの後頭部も、教室や廊下の淀んだ重苦しさも、大学全体の白々しくなま暖かい空気も、絶望的なまでにうっとうしくなった。
近くの古本屋やパチンコ店で時間をつぶした。当時(1970年)、パチンコは1玉1玉をのんびりと弾き上げる手動式で、いい台に当たれば、百円で1,2時間遊べた。昼近くになると、大濠公園まで10数分歩いて、まぶしいほどの新緑のきらめきに包まれて、ぼうとして黄土色の水面を眺め、弁当を食った。
数ヶ月が過ぎて、まったく大学に足は向かなくなった。
そもそも私は大学に来るべき人間ではなかったのだ。私はよほどの世間知らず、アホウな男だったのだ。受験勉強時代、大学とは中学や高校と違って学問をする所だと信じ込んでいたのだから。
学問というからには、まず問わなければならないことは、学問それ自体だと今でも私は思っている。数学は、物理学は、科学は、科学技術は何のためにあるのか。人間にとって、社会にとって何なのか。それらはどのように創られてきたのか。その本質はどのようなものなのか。
あっさり言ってしまえば、大学とは企業戦士養成所なのだ。そのための知識を上から与えられる場、否も応もなく頭に詰め込まねばならない所なのだ。学問などを求めること自体、ヤボな話なのだ。
ならば自力でやってみようと私は思った。科学とは何なのか、自分の頭で考えてみようと、県立図書館に通い始めた。ガリレオ、ニュートン、パストゥール、アインシュタイン、ボーア、中谷宇吉郎、朝永振一郎、武谷三男、宮本憲一、星野芳郎、宇井純・・・と、主に入門書、科学史の類、後には公害関係の本を読みあさった。
おぼろげながら見えてきたことの1つは、科学とは、人間を超越した中立かつ純粋客観的絶対的心理ではなく、あくまでも人間の1つの営みであるということだった。特に現代においては、科学と技術と社会(軍事、経済、医療等々)とは一体となって不可分である。場合によっては科学の進展を止めなければならないことも当然あり得る。それも一部の専門家たちに任せるのではなく、私たち1人ひとりがどのように科学を進めていくのか判断しなければならない。私たちが科学を創っていかなければならない。
このごくごく当たり前のことが、案外、理解されていないらしい。巨大科学技術による致命的とも言える地球規模の環境破壊が明らかになった今も、科学とは、科学的進歩とは絶対的正義のようなのだ。巨大科学技術が次から次へと産み出す、新「文明の利器」を、何でもいいから次から次へと消費することこそが、未だに進歩なのらしい。そして進歩は絶対なのらしい。
それはともかく、こんなことがわかったからといって、具体的現実的にどうなるものでもない。依然として大学、特に私が所属していた工学部に学びたいものは無かったし、かといって今すぐ大学をやめる勇気も、これといってやりたいこともなかった。
そうこうしているうちに1年半が過ぎた9月、留年(落第)、父との関係はいっそう険悪になった。どうするか?宙ぶらりんのまま、自分を追いつめていくしかなかった。
大学をやめるなら、当然、自分で食っていかなければならない。サラリーマンになる気はまるで無くなっていた。ネクタイを締めて毎朝、満員電車に詰め込まれることを考えるだけでうんざりだった。灰色のコンクリートの箱の中で終日過ごすことなどとてもできそうにない。料理には興味があったので、大衆食堂かラーメン屋でもと考えたこともあったが、1日中人相手というのも面倒だ。
土方はどうだろう。食うだけなら、1週間に2、3日も働けば、あとは寝てくらせるだろう。物は試しと、朝暗いうちから起き出して、友人から教えられた千代町の川辺に向かった。厳寒期で、凍り付くような闇に、いくつかの焚き火の炎が鮮やかに浮き上がり、防寒服に長靴に地下足袋姿の男たちが輪を作っていた。黙ってその輪に加わり火にあたっていると、やがてメガネをかけた小男がやってきて、何やらよく通る声で男たちにしゃべりかけ、歩き出すと、何人かが付いていく。私も後に続いた。
道路工事、下水工事、ビルの生コン打ち、港での荷の積みおろし等々、きつい仕事もあれば楽な仕事もあった。総じて、単純かつ無味乾燥な仕事がほとんどで、ただただ時間が過ぎて夕方の5時になることだけが楽しみだった。たとえ週に2、3日でも、これを一生続けるのはしんどい。
いっそ乞食か浮浪者(今で言えばホームレスか)はどうかと、春の盛りの深夜、なま暖かい風に吹かれて、博多駅や中州界隈をうろつきながら真剣に考えた。夏は橋の下、冬は駅の待合室(当時は24時間開放され、おまけにすぐ近くに銭湯もあった)で寝ればいい。食い物は料理屋の残飯。だがこれはこれで私から見れば、相当神経の図太い人間か、人の目をまったく気にしない悟りでも開いた人間しかつとまりそうにない。まだサラリーマンの方が気楽だ。それに親に何と言う?すでに共に生きようと決めた女(ひと)もいた。浮浪者になるならそれら一切を切らねばならない。とてもできそうにない。
こうして3年目の春も過ぎ、梅雨も明けた盛夏、父があっけなく死んだ。なぜか、私の青春時代も終わったような気がした。正直、ほっとした。父こそ私が大学に入ったことを最も喜び、大学を卒業し大企業の技術者になることを切望していたのだから。
人は死ぬ。何の意味もない。学校も、会社も、この日常も、この社会も。私が、そして他の1人ひとりが生きて、死ぬ、ただそれだけのことなのだ。いかにこの社会が、この世間が強大であろうとも、世間は生きてくれない、死んではくれない。生きるのは、死ぬのは私なのだ。
ただの一度の、ただ1つの私の生を、この空虚で荒涼とした世界に、どうしておめおめと押しつぶされることがあろう。そもそもこんな世界にいつまでもしがみついていたのがまちがいだったのだ。こんな世界からはスタコラサッサと逃げ出すに限る。
社会だって絶対的なものではない。人間が創ったものだ。その社会が駄目なら、別の社会を創ればいい。
後から考えると、すでにこの時点で、心は八割方定まっていたようだ。残りの大学生活の1年と数ヶ月はその仕上げだった。
翌年の9月、ようやく教養部から箱崎(はこざき)の大学(工学部)へと進級、2ヶ月ほど1日も休まず朝から夕まで講義を受け、その最後になった日の帰りの電車の中で、はっきりと決断した。大学をやめることを。私自身の手で私自身の世界を創ることを。
その後は具体的現実的に突き進むばかりだった。「もう一つの社会」を創るいちばん手っ取り早い方法は、自給自足だろう。自分で家を建て、自分で食や衣やエネルギー等、生活に必要なものを調達する。そうすれば金もいらない。働きに出る必要もない。そのために田舎に移り住み、とりあえずは農を営むのが最も現実的だろう。
その翌年(1974年)の7月、義兄の援助のおかげで、妻と私(その5月に結婚)は新天地に移り住むことができた。そこは福岡県筑豊の南端、山田市のはずれの中小の山々に囲まれた1haほどの栗山だった。
(つづく)


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