第5回 「共育の日々」 

シロウト百姓25年~得たもの、失ったもの~

第5回  共育の日々 (1999年11月執筆)

新生活を始めて2年目の冬、最初の子、野枝(のえ)が生まれた。私も妻も経済的にどうのこうのとか、生活の土台がしっかりしてから、とかには無頓着で、山羊やウサギが子を産むのと同様、たまたま天から授かったものを有り難く受けた。

少なくとも小学校までは、子育てにほとんど金はかからなかった。出産費用はいただいた祝い金でつりが来るほどだったし、衣類、玩具等はすべて貰い物(不要になったら友人たちに回した)、食い物は自家製、テレビやファミコン等はなくても支障なかった。

正月のお年玉もこちらから与えるどころか、子供たちがよそからもらった全部をせしめていた。

これはずいぶん後の話、野枝が小学校高学年になる頃だったか。元旦というのに、3人の子供たちは朝から強張(こわば)った顔をしていた。親戚の誰彼から一通りお年玉を貰ったその夕、3人そろって私に団交を申し入れてきた。彼等は、自分たちが貰った金は自分たちのものであると、いたって当然の主張をした。私は、こちらからヨソの子供たちにお年玉をやっているからこそ、オマエたちも貰えるのだ。と、訳のわからない理屈をこねて半分いただくのが精一杯だった。わが家の牧歌的時代は終わったなと、冷酒を口に含みながら思ったものだ。

さて、最初の出産から2年3ヵ月後、玄一(げんいち)が誕生した。このときは、わがバラックで、助産婦さんに取り上げてもらった。

自宅での出産の利点の第1は、自身の巣で静かに落ち着いて、産み、休息し、赤ん坊とかけがえのない時を共有できることだろう。第2が食事、そして第3に費用がかなり少なくてすむ。

ただし、私1人ではどうにも手が回らず、結局、妻はゆっくり休めなかった。やはりもう1人欲しい。もう一つは何か事があったとき、病院のように迅速に対応できない。妊娠時から、信頼できる医師と結び付きをつくっておくことが必要だろう。

育てたというより、共に生きた、あるいは生かされたというのが正直な実感だ。何かしら子供の存在は生命の輝きに満ちている。私たち大人の淀んだ日常の膜を取り払い、常に新しい生き生きとした実(じつ)の世界を現出させる。空の限りない深さ、カラスと雲と風の自在さ、雨の透き通った一滴(しずく)一滴、土の鼓動、日の光に黄金(こがね)色に輝くクモの糸・・・躍動し、枯れ、再生する緑・・・。

子供の出現は、生来怠け者の私には格好の刺激になった。妻と2人だけであれば、朝から酒と山羊乳を飲み、野草と耳パンでも食べて、終日寝て暮らしていただろう。幼児がいればそうはいかない。風雨を防げる住処(すみか)、米や野菜等の食糧、薪等の燃料、それにいくばくかの現金くらいは調達しなければならぬ。それも数年、あるいは10数年先のことまで視野に入れなければならない。

畑にも山にも、いつも子供たちを連れて行った。彼等は澄んだ眼差しでトンボを見つめたり、勝手気ままに草(時には野菜)をちぎったり、ミミズをつかんだりした。

軽トラックで出かける時も、いつも助手席の妻の膝に子供2人(後には3人)、事故に遭わなくてよかったと今更ながら思う。川原にセリやノビルを採りに行ったり、羊をさがしに森の奥のでこぼこ道を登ったり、熊本や大分の友人をたずねたりした。

食は最も大切な共同作業であり、祭りであり、儀式でも、祈りでもあった。しばしば外で火を囲んだ。子供たちは薪を集め、ガメの葉を採った。私は手回しの製粉機で粉を碾(ひ)いた。妻は具を作った。粗末なものだった。ミソ、大根葉、ナス、タマネギ、・・・前夜の煮物の残り、サツマ芋、だが、もわもわと湧く湯気の中の熱々のこの蒸しマンの、なんと豊かだったことか。

ところで実は私は子煩悩どころか、昔から幼児はうるさくて汚くて嫌いだった。わが子がこの世に出現して初めて、そのまったく無防備で無垢の存在に心引かれたのだが、苦手意識は残っていた。育児に疲れ果て、わが子を殺したり自殺したりする母親の気持ちが、私にはよくわかるような気がするのだ。あれもしていない、これもできていないと焦りを募らせている時、どうにも気持ちが滅入ってしようのない時、赤ん坊の泣き声というものは、なんとも絶望的なものだ。思わず「だまれ!」とやれば火に油だ。

1年、2年と成長していくにつれ、厄介事は増えていく。用便、食事、どこをうろつき回るか、何を口に入れるか、わからない。こちらの言うことはきかない。怒鳴れば怒鳴るほど心を閉ざしてしまう。

水は下から上に流れない。なるようにしかならないと教えてくれたのは、動物たちであり、土の営みだった。

この頃、100羽ほどの鶏を栗山に放していた。その山の数10メートル下方に畑があり、ジャガ芋が芽を出していた。山は広々としていて、草は嫌というほど茂っているのに、なぜか彼女たちのほとんどが畑に下りてきて、私からみればうまくもない芋の芽をついばむ。何度石を投げても、「コラー」と叫んでも、数分後にはゾロゾロと下(くだ)ってくる。怒髪(どはつ)天を衝(つ)く、ほどではないが頭に血を上らせた私は棒を持って突進、雨に濡れた赤土に足を取られ、すってんと後ろにひっくり返り、後頭部をしたたかに打った。そのまま横になって、しばらく大空をながめていた。

ミツバチも飼っていた。これはもう、まったくこちらの思いは通じない。ケンカもできない。怒鳴ったり、まして巣箱をけとばしでもしようものなら、バチバチと全身に針が突き刺さってくる。「話せばわかる」はずもないし、いかな空手の達人であろうが防ぎようがない。ひたすら逃げるしかない。

こちらの勝手な思いがまったく通用しないのは畑も同様だ。例えば、雨の多い初夏、露地栽培(ビニール等の雨よけを使わない)のトマトは、いつも青い実のうちに腐ってしまうし、夏の終わり、大根下ろしが食べたいからと、早目に種をまいても、双葉のうちに必ず虫に全滅させられてしまう。

教育(強育)ではなく、生命と生命、異と異が、いかに共存するか、だろう。

まずとりあえずは、相手を全面的に認めるしかない。それも、ゆったりといいかげんに。あまり相手にキリキリと集中し、見つめすぎないほうがいい。互いに見つめ合うのではなく、共に、あるいは別々に、空や雲でも見ていたほうがいい。

外に開いていたほうがいい。親と子だけ、密室の中、では、自身の毒にやられてしまう。他の混然とした諸々の存在があってこそ、それらの関係の中にこそ、「あなた」と「私」は生きていくことができる。

相手をわかろうなどとしないほうがいいようだ。相手の中に踏み込まないほうがいい。ただ時、そして空間を共有すればいい。共に日の光を浴び、大地を踏みしめればいい。

人間そのもの(・・・・)を批判、まして否定してはならない。人間そのものはどうしようもないものだ。ただ関係のあり方を変えるしかない。関係を創っていくしかない。それこそが、教育(共育)だろう。

別に親、あるいはそれに代わる者(以下、略して親)が、子より偉いわけでもない。しかし、とりあえずは親が、関係を創るための最低限の掟を、すなわちどう共に生きるかを示し、実行していかなければならない。それがしつけというものだろう。これが決定的に欠けていること、親が放棄していることが、教育の荒廃の元凶だと私は思う。社会が混沌としているからこそ、私たち1人ひとりがどう生きるのか、自身の頭で、心で、全身で問い直さなければならないのではないか。

ついタイソウな話になってしまった。具体的で瑣末な話に戻して、わが家の掟のその1は挨拶をすること。これは1日を共に生きようという、一方から一方への呼びかけであり、応答だ。その2、食事および食物を大切にする。その3、ゴミを捨てない。その4、弱い者いじめ、差別をしない。その5、ウソをつかない。

白状すると、これらは子供たちへというより、自身への戒めだった。別の言い方をすれば、子供たちが生まれる前、あるいは妻と共に生きる以前は、私はろくに挨拶もできず、食をおろそかにし、平気でゴミを捨て、差別し、ウソをついていたわけだ。

今だってそうなのだが、昔に比べればずいぶんまとも(・・・)になったものだと、つくづく思う。ちょっと無理し過ぎかもしれない。何年か後、子供たちが皆、自立したとき、一気にタガが緩み、もとのどうしようもない人間に戻るかもしれない。その時は山奥に独り逼塞(ひっそく)し、他に害を及ぼさないようにしたいと思っている。

(つづく)

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